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Mersey Beat Story Vol.3 Joining of Onishi, Withdrawl of Brass,joining of Kanachan and Mr.Todaka

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Mersey Beat Story Vol.3 Joining of Onishi, Withdrawl of Brass Section, Mr. Todaka and joining of Kanachan, 大西くん(Dr)加入、ブラスの御三方脱退、戸高氏参画、カナちゃん(KEY)加入



 

本稿は、大西くんや当時の関係者に聞き取り、確認をして鈴木がまとめました。

もし勘違い、間違いがあればご指摘いただければ幸いです

 

せっかくバンドとしてのスタイルを確立し、ホーンも加わり、さらなる高みを目指すマージービートでしたが、花石氏が、学業に専念する事で脱退することとなりました。

しかしながら、不幸中の幸いというか、突然の脱退ではなかったので、次のドラムを探す時間が少しありました。 そこで白羽の矢が当たったのは大西君でした。


大西君はアレキサンダーのボーカル、ギターで、Saturday’skidsのメンバでもありました。その頃マージービートのライブにもよく顔をだしていました。


当時の大西君は、音楽的にはSMALLFACESなどMOD系の音楽は好きでも、ファッションにはそこまで興味はなかったそうですが、高校のクラスメイトの吉山くん (アレキサンダー/TheGEAR)の影響で徐々にその世界観に夢中になっていったそうです。 一度飲み会かなんかで、彼は「掛け持ちしてるバンドではドラムを叩いてる」と話していたようで、その話を聞きつけた鈴木が、中戸君に「大西ドラムもできるらしいで。大西を誘えば?」と言ったようなことらしいです。実際そのへんの記憶はあやふやなんですが。(笑)

KidsOverPartyVol.1の後、皆でオールナイト上映の「さらば青春の光」を見に行った際、中戸君に「大西、ドラムできるんやろ、入れよ!」みたいな感じでいきなり誘われたそうです。 花石君がマージービート加入した時も「さらば青春の光」を見に行った際に、中戸くんに誘われた経緯があり、偶然とはいえ、なにかMODの定めとでもいいましょうか、まさに、”事実は小説よりも奇なり”ですね。 本人曰く、とてもNO!と言える雰囲気ではなく、また憧れのオーディエンスとして見ていたバンドに誘われたということもあり、その時はあまり考えずに二つ返事で引き受けたそうです。 ところが、花石君の脱退ライブで、アンコールの際にMCで花石君が、「次のドラムはパワーのあるやつなんでよろしく」と言われ、その時になって初めて自分の担う役割の重大さに気づいたとのことでした。

そのライブ(1986年2月のCandyHall)は、それまでのマージービートのライブでは、最高と言えるほどの盛り上がりで、神々しいほどのオーラーを放つ花石さんに大西くんはすっかり当てられてしまったそうです。

マージービートのイチファンだった自分が、今後は結成当時から応援しているようなファンに演奏を聴かせるなんて、はたして花石さんの代わりが自分に務まるのだろうか?とプレッシャーはかなりきつかったということでした。 それからマージービートのホームともいえるスタジオYOUに週2で通うようになりました。 すでに脱退した花石君とは練習を一緒にすることはなかったようで、以前のスタジオ練習の録音やデモテープを聞いてトレースする日々だったそうです。 中戸君、山本君も演奏に関して細かく口出しすることもなく、とても優しかったそうです。 練習後 Studio Youの前でくつろぎおどける3人。


その後加入後2ヶ月しか練習期間がないにもかかわらず、5月11日はKid’s Over Party Vol.2、(Candy Hall)、5月18日は東京ModsMayday86と、いきなりライブが立て続けでした。 Kids Over Party Vol.2 Mersey Beat Live


Mods Mayday Tokyo 1986 Mersey Beat

とにかく時間がないので「習うより慣れろ」という感じでもあったようで、どんどん経験を積み重ねてマージービートの3代目ドラムにいつの間にか成っていたとのことです。 ただ、本人曰く、その頃は、ただ次のライブに向けて練習して本番に臨むだけで一杯一杯という状態だったと言う事でした。 東京Mods Mayday 86参加時、大西くんは実はまだ自前のスネアもキックペダルも持っておらず、あろうことかスティックだけ持って会場のLIVE INNに行ったところ、当てにしていた会場の据え付けドラムのスネアのヘッドがリハーサル時にやぶれてしまいました。 困った彼は恥を忍んで他のバンドの親切なドラマーにスネアを借りたそうです。 ちなみにそのスネアは The Standardsからの借り物で、東京Mods Mayday 86の録音でも聞けるとおり、珍しくかなり高めに張った音だったのはそのためだったようです。 ちなみに、彼はマージービートでは最年少(と言っても、中戸君の4歳下)だったので、メンバーに可愛がってもらったそうです。 山本くんは彼の加入時には、どのように教育してゆくか?と考えていたようです。 特に中戸君とは練習以外でもしょっちゅう会っては、食事をしたり遊んだりして親交を深めていきました。 そんなこんなでメーデー前のスタジオではしっかりタメ口になるほど打ち解けてしっかり主要メンバーに成っていました。 順調にライブを重ねたマージービートですが、ホーンの3人(山本達也さん、山本克也さん、故林秀樹さん)がメーデー以降脱退し、以前のスリーピースに戻ります。 山本くんは、残念ではあったものの、3人でやって行けるだけの力もついていたので不安ではなかったと語っておられます。 その後は以前よりはライブをセーブし曲作りを精力的に行いました。 それでも、Kids Over Party. Vol.3,(1986年8月) に出演、コレクターズとも親交を深めました。


その後、マージービートにマネージャーとして戸高君が参加します。 戸高君はそれまでSaturday’s Kidsのメンバーの中心的な存在でとしてKids Over Partyの企画、運営を行ってきましたが、ライブパーティー慢性的な赤字や入場者数の伸び悩み、などの問題で頭を抱えていました。 おそらく彼はライブパーティーの企画、運営をするよりも、バンドを育てる事に可能性を感じたと思われます。そして、中戸くんと一緒に飲みに行って、戸高くんがマージービートのマネージャーになるということで話がまとまったということだったと思います。(記憶があやふやですいません。)おそらく彼は、ビートルズにおけるブライアン・エプスタイン的なポジションを目指したのではないかと思います。 自分は当時Saturday’s Kidsのライブやその他の運営、その他買い物や飲みで戸高くんとつるむことも多かったのですが、その際に、ホーンが抜けたマージービートの今後みたいな話をしたような記憶があります。そして、キーボードに当時CHAAOでキーボードだったカナちゃんを誘ってみたらと提案しました。 そしてその後戸高くんからの誘いを快諾してもらい、カナちゃんは、CHAOOと同時進行でマージービートに加入してくれました。 カナちゃんはエレクトーンのエキスパートでしたので、当初は元々のホーンのセクションの部分をキーボードを充てる感じだったように思います。(Kids Over Party Vol.4ではカナちゃん加入後のライブ音源です。)


Kids Over Party Vol.4 Mersey Beat


その後、時間を重ねるに連れ独自のアレンジを効かせ、マージービートになくてはならない存在と成ってゆきました。 Kids Over Party以降はクリスマスのサンホールの年越しライブパーティを経て、翌年にはシングルレコードを作成することになるので、スタジオにてそのための曲作り(Keep on Harpin’, Please OpenYour Eyes)に集中する時間が続きます。その後ようやくレコ―ディングとなるのですが、今度はレコード完成後ベースの山本君が脱退することとなります。 でもそのお話は、次の機会に。 By鈴木博之

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